じぶんかたろぐ-自分語log

2012年~出産子育てスタート。自分を語るlogという意味も込め【じぶんかたろぐ】として綴ります。

七田の金言でまた一考…知恵、能力、自由

はてなさんがアプリ修正版を準備中だそうですので、
それまでしばらくは画像無しブログで行きます。

今朝の七田の金言です。
今日の金言

子どもが得意なことについて、その才能が潰れないように見守ってあげるのが、親の役割です。

解説
学校では、文字の読み書きなど、いわゆる「教科」に対する能力が求められ、対人的な能力や、スポーツが得意といった面があまり評価されない場合があります。
しかし、人生においては、むしろ学校を卒業し、世の中に出てからどうしていくのかということの方が大事です。
親が「あなたはこれを伸ばしなさい」と勝手に決めるのではなく、まず、子どもの姿が先にあって、子どもの得意なことを伸ばしてあげましょう。
おーそうだそうだその通りだー!と激しく同意したので、取っておきます。

そうなの、世の中に出てからが大事なの!

なんていうか学力、学力よりも
世の中を生きていく、立ち回っていく、柔軟さに逞しさ。

現代みたいな凄く混沌を感じるような世の中にあっては尚更。

多くの小さい子供の親御さんが同じ思いなんじゃないかと思います。
別に「天才児」とか「高いIQ」を短絡的に望んでいるわけではなくて。

知能より、「知恵」というか、
これは日本語の言葉の感覚的に思いつきで出て来ただけなのだけど、
それぞれの定義を改めて読んでみると、知に関しては「知識と才能」と出てくるし、
    の定義をWikipedia参照すると、

知恵(ちえ、智慧φρόνησις プロネーシスsapientiawisdomज्ञान , jñāna )は、道理を判断し処理していくの働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力。特に「智慧」は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。「智」は相対世界に向かう働き、「慧」は悟りを導く精神作用の意[1]

知恵と知識の関係については、様々な考え方がある。知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいる、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる、などとも言われる。

互いに知恵を競い合うことを、「知恵競(くら)べ」(賢(かしこ)争い)という[2]


とあります。

うん、、、私、知恵が好き。
知恵の方が良い。

って、なんだかちょっと七田の金言の内容から逸れているけれど、
私の読解ではこういう流れの思考展開になりました。

多くの人達が感じている事だと思うけれど、
学校で習った事のどんだけが実際に役立っている?覚えている?使っている?って。

義務教育だから
一応日本国民としては子供に小中学校に行ってはもらうけど、
親としては現代の病み気味の学校環境の現実に警戒しながらも、

人間としてこの世の中を
如何に楽しく充実させて生きていくための姿勢、考え方

を植え付けていきたいなぁ、と今考えております。

現在2歳9カ月のアコが学校生活を始める頃、
学校生活で優秀な位置に行くのか、そうでないのかわかりません。

アコの「学校の成績」がもし悪かったとしても、
どーんと構えていようと思います。

実際、成績が良くなくても現在立派にやっている人達が居ます。

逆に私は小・中学生時代の成績や発表物やらで
周りに将来有望とか言われていた自分が恥ずかしくなります。

今まで
周囲の私に対する想像や期待と自分自身の実際を照合して、
自分は期待外れ、裏切り者、みたいに否定し続けて
レールを外れて自由に生きてきた反面、ずっと劣等意識は付いてまわっています。

皆が出来ない事をしているからスゴイと言われても、
皆が当たり前に出来ている事が出来ない、、、。

貫ける事が出来れば楽なのに、
両極端な自分が居るからシーソーのような動きの天秤で苦しみます。

子供を産んで育て始めてからは、
とにかく自分の描く「まとも、真っ当な親 像」みたいな物に漠然と縛られ続け、
自分はともかく、子供はまともに育てなきゃ、、、って

おい、まともってなんだい?

誰が決めたの?

自分で掲げた漠然とした、根拠も良く解らない
ただ自分を否定する為だけの全貌の見えない理想像。

正にこういう事に、
ホルモンバランスがおかしくなっていると、
ほんっとやられるんですね、、、。


特に子育てという未経験分野が始まったデリケートな期間。

実際、アタマやられていました。

まるで過去に変な宗教にハマっていて、
やっと洗脳がとけて宗教から脱退した人が
過去の自分を振り返る、みたいな気持ちかしら今は。

まだ100%とは言い切れないですけど、
本来の自分がやっと復元されてきた感覚があるのです。

自己肯定感がメキメキ湧いてきています。

型破りだと褒められても、
一方では型にはまっていない事に不安を覚えていた、
それはこの日本の文化がそうさせるのか、どうなのか。

昔は訳も分からず自信を持っていました。
そんな自分をKY DQNだと今の私は思います。

今は訳が分かった上で改めて自信を持ちたいと思います。


こんな自分の中の葛藤を踏まえて、
アコの今後に付き合っていき、良きアドヴァイザーになりたいと思います。
一緒に大いなる「知恵」を育めるように生きたいです。